ハスについて

蓮の育成は、NPO法人長池オアシス顧問 金子明雄先生(元京都府立植物園園長)に
ご指導いただいています。


ハスの花が咲く時期は6月中旬から8月中旬ごろです。 早朝から咲き始め、昼頃には閉じてしまいます。 午前8時以降、早い時間が見頃です。
一つの花が咲くのは四日だけですが、水生植物帯にはたくさんの種類の蓮の花が咲いていますので、次から次へと開花します。

入口には鉢にて約80種類のハスが植えられています。
  水生植物帯に咲いているのは、舞妃蓮(まいひれん)、漁山紅蓮(ぎょざんこうれん)、長池妃蓮(ながいけひれん)、          
 ミセススローカム、一天四海(いってんしかい)、愚白蓮 等です。


咲き分けという珍しいハスが咲きました。  2018.8.3


長池オアシス オリジナルのハス

長池妃蓮 ながいけひれん
長池オアシスで発見された。舞妃蓮と漁山紅蓮の自然交配種か、舞妃蓮の変異したもの。
2016年 金子明雄先生 命名。
愚白蓮 ぐはくれん
江戸時代に書かれた熊取町出身の中盛彬(*1)の「かりそめのひとりごと」に 熊取にいた高僧 
雲山愚白禅師(*2)にまつわる話の中で蓮が出てくるため、愚白禅師生誕400年を記念して、2019年熊取に咲いていた地元の蓮を愚白蓮と命名しました。 
愚紅蓮 ぐこうれん
熊取町立南小学校にて出前授業で発芽した種から開花した。
蜀紅蓮の実生と思われる。
2022年 金子明雄先生 命名。
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20xx年xx月xx日
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  • *1 中盛彬 なかもりしげ( 1781-1858) 
    長年庄屋を勤めながら、天文学や和学・国学を学んだ知識人で、「太陽明界六曜運施正儀釈」、泉州の地誌「かりそめのひとりごと」などの著書がある。
  • *2 雲山愚白 うんざんぐはく(1619-1702)
    肥後に生まれる。曹洞宗の月舟宗胡の弟子となり、島原の乱で荒廃した島原半島に入植していた人たちのために仏教を再興させた。
    加賀藩の前田候の招きで現在の富山県にある瑞龍寺の住職となるが、三年ほどして辞去した。泉州を遊行していた際、空き寺になっていた熊取の成合寺に入り、それを知った岸和田藩主の岡部候が喜び、藩主の援助などを受けて寺を復興した。
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かりそめのひとりごと

成合寺の愚白和尚は、ある時村の人々を寺に集めて 

『能登の総持寺でいま火事が起きたので、この庭石に水をかけなさい』と
言い、 村人がその庭石に水をそそぐと、水はしうしうとしみこんだという。 

数か月後、能登の総持寺から使いの僧が成合寺に来て、出火の時に
火消人足を賜ったことを感謝した。

成合寺の愚白和尚が亡くなったとき、 山一面に蓮華が咲いた。
水も蓮華の種子もないはずの山に蓮華が咲くとは不思議なことで、
この蓮華の花をとったものが、今、院にある。 

(「蓮華」とは蓮の花の事を指します。畑に生えているのはゲンゲ又は
レンゲソウです。)


雲山愚白禅師について

愚白禅師が大変優れた僧であったことがわかる逸話が「見聞宝永記」に記載されています。

*「見聞宝永記」江戸時代前期の曹洞宗の僧 損翁宗益の言葉を、弟子である面山瑞方が筆録したもの

泉州におられた愚白禅師はかつて、越中(富山)の瑞龍寺の住職であった。
ある年の冬、加州(=加賀、石川県南部)の宝円寺の住職が、春に瑞龍寺相手に裁判を起こすつもりであると
愚白禅師は知った。 そこで愚白禅師は、年明けの早春、年賀の挨拶を金沢の城主(前田候)に申し述べる日をもって、
二度と瑞龍寺に帰らなかった。身の回りの手荷物と笠のみを持って去ってしまった。
前田候の者が探したけれども、どこに行ったか分からなかった。
 愚白禅師は、秋になって泉州に遊行していたところ、(大阪府泉南郡熊取町にあった)成合寺は住職がよく盗賊によって殺害され、現在は住職がいない事を聞いた。愚白禅師は 『幸いなことである。山居するに好い土地である。老僧がもし、害に遭えば害せられよう。 たとえ害せられなくても、また(寿命を思えば)幾年を過ごすことがあろうか』と言い、すぐに同寺の住職となり、日中は弟子達と托鉢して飢えをしのいだ。  
泉州岸和田城の岡部候は、愚白禅師がすぐれた僧である事を喜び、山林や田畑を援助し、寺は豊かになった。
すると、修行僧が集まってきた。実に、曹洞宗の寺を復興したのである。
もし、先に愚白禅師が瑞龍寺に籠もり、宝円寺と下らない裁判で確執が起これば、お互いに迷いの煩悩が増し、
それで自らの行いを悪しきものにしたことだろう。 ただ、僧仲間の恥辱をさらすだけでは無く、
そのために僧仲間が恥じ入ることにもなろう。 ああ、徳の高い愚白禅師の行いはまさに、
末世に生きる僧にとっての目指す標準であると。                                   
                             愛知学院大学 教養部人文科学 菅原研州准教授 訳

 

上記の文献を現代語訳し、考察された、曹洞宗の僧侶でもある菅原准教授のお話によると、

「愚白禅師のいた瑞龍寺は宝円寺の末寺となり、宝円寺は『通幻派』(曹洞宗の一派)の法系で ありました。
当時は基本的に寺院を創建した僧と同じ法系で住職の座を守るべきだと考えられていました。
そこに他法系である『明峰派』の愚白禅師が入ってきたので、不満を持つ人達もいたのではないでしょうか。
推測にはなりますが、宝円寺は瑞龍寺に対して、住職の座を巡って裁判を起こそうとした可能性があります。
そこで、愚白禅師は、至極あっさりと住職の座を捨て、何人か付き添った弟子達とともに寺を出て行ったようです。
その最中で、熊取にて空き寺を見つけ、住職になりました。
損翁禅師が言いたかった事は、この『あっさりと捨てる』ということです。
実際に瑞龍寺は、一時は300石という、かなりの石高を前田候から拝領していましたので、食べるにも困りません。
一説によれば、常時数百人の修行僧がいたとされています。
愚白禅師はそれがもし、他の者からの嫉妬を招き、かえって害となるならば、手放してしまった方が良いと思いました。」とのことです。

愚白禅師は、乞食桃水と呼ばれた名僧桃水雲渓とも親交があり、話が残っています。
2019年で愚白禅師生誕400年となりました。

かつて熊取に徳の高い愚白禅師がおられたことを、少しでも多くの方に知っていただけると幸いです。

愚白禅師の墓は、永楽ダムまでのトンネル手前左すぐにあります。(現在非公開)                                                     

愚白禅師の顕彰については 愛知学院大学 教養部人文科学 菅原研州准教授に多大なご協力をいただきました。
深く感謝申し上げます。

雲山愚白禅師
出典 瑞龍寺展図録




出典 「見聞宝永記」 面山瑞方 現代語訳 菅原研修准教授
   「この地に遊ばんひとは必ず見るべしー中盛彬の泉州案内ー」橘弘文教授
   「熊取の歴史」 熊取町教育委員会


画像協力 高岡市教育委員会
ハスとのかかわり

2000年にオープンした当初より、長池オアシスの水生植物帯には蓮が植えられおり、立派に咲ていました。
しかし、2006年に突然ハスが全滅し、大変困っていたところ、偶然 テレビで京都府立植物園の
課長(当時)であった金子明雄先生がハスの話をされているのを見て、すぐ連絡を取り、会いに行きました。

金子先生から、ザリガニが原因であろうとアドバイスをいただき、ひたすら駆除に専念しました。

次の春に、大阪府職員の当時の担当であった三島さんが、貝塚市馬場の大福寺の住職様に事情をお話をして
下さり、住職様は快く種蓮根を何年も分けて下さいました。

住職様よりハスを鉢で育成する方法を教わり、長池オアシスでも鉢でハスを育て始めました。

その後金子先生が長年事務局をされておられた京都花蓮研究会に入れて頂き、会員の方からも多くの品種を
譲っていただきました。

皆さんのご協力のおかげで、長池オアシスでハスが順調に咲くようになりました。

何かハスで地域に貢献できることはないかと考えていたところ、
「泉州地域は古くからため池が多く、一昔前はそこかしこのため池で蓮が咲き誇っていた。」という話を
高齢の方数人から聞きました。

それならば、熊取にも蓮にまつわる伝承が残っているのではないかということで、検索しました。
そして、愚白禅師と蓮の話が、民俗学者 橘弘文教授の「この地に遊ばんひとは必ず見るべしー中盛彬の泉州案内ー」という論文に紹介されていました。

愚白禅師については、「高僧愚白禅師ゆかりの成合寺が廃墟となり火災で焼失した」ことを嘆かれておられた僧籍の方のHPに行き当たり、愚白禅師について教えを請うメールを送らせていただいたところ、菅原研州准教授がお忙しい中、快く上記の文献の現代語訳に協力してくださいました。

他には「愚白禅師が瑞龍寺の幻の住職であった」という記事がかかれていたHP(残念ながら現在は削除)も
ありました。
内容は、「雲山愚白禅師は瑞龍寺の住職であったが、前田候への正月の挨拶で失礼な発言をしたか、質問に適切に答えられなかったため、前田候の怒りをかい、住職を罷免されたのではないか」というものでした。

「見聞宝永記」の内容と大きく異なり、なんと歴史は興味深い物であるかと驚嘆しました。
前田候は、急に去った愚白禅師のことをいたく心配され、配下の者を京都まで捜索に出したそうです。
「見聞宝永記」からは愚白禅師と前田候の人柄が伝わってきます。


多くの方のご研鑽とご厚意の元、雲山愚白禅師の愚白蓮は世に出ることができました。

お世話になった皆様には感謝の言葉しかありません。

郷土の先人を顕彰する事により、地域の人が地元に愛着と誇りを持つ一助となれば幸いです。

NPO法人長池オアシス メンバー